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NHK大河ドラマ『どうする家康』で嵐・松本潤が熱演!「徳川家康の天下殿」を決定づけた!?

松本潤
松本潤

 豊臣秀吉が亡くなってまだ一年も経たない慶長四年(1599)閏三月一三日、早くも「(次の)天下殿になられ候」(『多聞院日記』)といわれた武将がいた。

 2023年のNHK大河ドラマどうする家康』の主人公、徳川家康だ。彼がその日、秀吉の遺言に基づき、伏見城京都市伏見区)の西の丸に入城したのである。

 伏見城は秀吉の晩年、彼がそこで政務を執っていたため、その城の主が「天下殿」といわれるのも頷けるが、そればかりではなかった。

 家康が「武断派七将による石田三成襲撃事件」をうまく処理し、結果、秀吉亡き後の不安定な政局の中で確固たる地位を築いていったといわれるからだ。

 その襲撃事件は、同じ豊臣恩顧の諸将の中でも武断派と呼ばれる七人(福島正則加藤清正黒田長政池田輝政細川忠興浅野幸長、加藤義嘉)による三成個人への反発に原因があるとされてきた。

 ちなみに七将のメンバーは史料によって異同が生じており、ここでは江戸幕府の公式歴史書といえる『徳川実紀』に従った。

 その対立は、朝鮮出兵文禄・慶長の役)の際、奉行の三成と七将との間に生じたとされる。

 彼らの三成への怒りが、秀吉死没の翌年閏三月三日に重鎮の前田利家が亡くなると一気にその重しが取れ、翌日(閏三月四日)になって爆発。

 同日、七将が大坂にいた三成の襲撃を計画し、それを知った三成が伏見へ難を逃れたとされる事件だ。

 そして三成が七将の背後に家康がいることを見抜き、逆転の発想でその伏見屋敷へ逃げ込むという展開の逸話が語られ続けてきた。

 だが、ここにきて、その逸話は誤解に基づくものだと判明し、また、歴史学者の白峰旬氏によって新説が提唱され、この事件も見直しが進められている。

 まず、三成が家康の伏見屋敷へ逃げ込んだという誤解がどうして生じたのか、その話から始めよう。

 歴史学者笠谷和比古p氏によると、元禄時代の末頃に成立した『岩い わ淵ぶ ち夜や話わ』が誤解を招く要因の一つになったという(「豊臣七将の石田三成襲撃事件」/『日本研究』22集)。

 同書によると、まず三成と昵懇の佐竹義宣水戸城主)が襲撃の噂を聞き、その夜、大坂の三成屋敷を訪ね、「このたびの儀は理を非に曲げても家康公に願い入れるほか手はありません」と述べた。

 そして、義宣が女乗物(身分の高い女性用の籠)に三成を載せて自ら同道して伏見へ上り、家康に庇護を求めるのだ。

 一方、当時の家康の伏見屋敷は城と宇治川を挟んだ対岸の向島にあったものの、七将がそこへ押し掛けて三成の引き渡しを求めると、家康は「身の置き所がなくこの家康を頼って来たのだから、日頃不快に思っている相手でも引き渡すわけにはいかぬ」と答えたという。

 確かに以上の話からは、三成が家康の伏見屋敷に逃げ込んだと読み取れる。

 ところが、家康の侍医がしたためた『慶長年ね中卜斎記』や『慶長見聞書』(江戸時代初めの随筆集)などと、実際に事件が発生した年代に近い史料はこぞって、三成が伏見城内の自身の屋敷に籠ったと書いているのだ。

 年代に近い史料を優先するのは歴史学の常套だ。とはいえ、三成が家康に庇護を求めたとするほうが話としては面白い。それはまた、家康の度量の大きさを示す逸話にもなる。

 よって、この話が一人歩きして広まっていったのであろう。

 一方、白峰氏(前出)は、公卿や御所の女房、さらには著名な僧侶らの日記(いわゆる一次史料)をつぶさに検証し、そこに「襲撃」という文字が見当たらないため、襲撃計画そのものを否定している。

 以上の日記類から分かるのは大坂や伏見で「雑説」があり(『言と き継つ ぐ卿記』)、伏見で三成と七将の「申合」があった(『舜日記』)ということ。白峰氏は「申合」を「言い争い」という意味に解している。

 それでは、両者は何をめぐって「言い争い」していたというのか。

 この少し後に、朝鮮出兵の際、三成の影響下にあった軍目付の熊く ま谷が い直な お盛もりらが処罰されており、そこからも「言い争い」の原因はやはり、朝鮮出兵での七将と三成らとの対立にあり、奉行や目付側に何らかの問題のあったことが想定される。

集団訴訟事件の仲裁が家康の地位を高めた!

 閏三月一〇日付の『義演准后日記』にはずばり、「訴訟」という表現が出てくる。通説では閏三月四日に七将の襲撃計画を聞いた三成が伏見へ逃れたというが、以上のことから伏見の三成は四日以降、七将から朝鮮出兵の際の不当な態度を問題にされ、訴えられていた事実が見えてくる。

 七将たちが訴訟を有利に運ぶ示威行動として、軍勢で伏見城を囲むようなことはあったかもしれないが、あくまで問題の本質は訴訟にある。『多門院日記』によると、三成と同じ奉行職の増田長盛前田玄以も「一所(同じところ)」に籠ったと記載されている。どこに籠ったのかまでは不明だが、三人が伏見城内にいたのは間違いない。

 白峰氏は「籠った理由は、政治的な謹慎という意味にとらえられる(軍事的抵抗であれば、三成一人が籠もればよかったはずである)」としており(『新視点 関ヶ原合戦』)、三成個人に対する武装襲撃というより、この事件は奉行衆への集団訴訟と見るべきだろう。

 閏三月七日の時点で福島正則らが三成に腹を切らせようとしたという風聞があり(『北野社家日記』)、そのことが後世、「襲撃」計画があったと誤解されるベースになったのかもしれない。

 いずれにせよ、この訴訟問題は、三成の引退と居城佐和山城滋賀県彦根市)への蟄居で決着がついた。明確に記されているわけではないものの、『多聞院日記』に「扱い(仲裁)」という表現があるため、誰かが仲裁したのは確実で、当時の政治バランスから見ても家康をおいて他に考えにくい。

 そして彼は前述した通り、閏三月一三日に伏見城の西の丸入りし、「天下殿になられ候」といわれる。襲撃計画そのものはなかったにせよ、この訴訟事件が家康の地位を高めたのは間違いないだろう。

跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。

参照元:https://dailynewsonline.jp/